茶の湯作法3 清浄という事

清淨といふ事

それから又世間の人は、茶の湯の道具といへば、直ぐウス汚いもので、それが又、貴いものであるかのやうに誤解されてゐる向きが少くないやうでありますが假令、古色を帯びた時代物でありましても、古いから汚くてもよいといふことは決してないので、何處までも清淨でなければならぬ、といふことが、茶の湯の第一の精神なのでありまするから茶巾、茶筌、柄杓、箸、楊枝などは別して清潔な、そして絶對に新しいものでなくてはならないのであります。

茶の湯の清浄に関して「茶道では一般には汚いものを貴ぶと誤解されている」というのは昔からよく言う所。

しかし、「茶道具の汚れ」の話が、いつの間にか茶巾の新旧の話になっているのはなんかだまされている気がする。


よく考えてみる。

著者は茶の湯の世界の側の人間で、私はもう同じ世界の人間。

茶の湯の世界の人間は「茶道では一般には汚いものを貴ぶと誤解されている」と一般の人は思っている、という風に考えている。

しかし、茶の湯のバイアスを取り外す(もう無理かもしんないけど)事ができたら、喜左衛門井戸もただの汚い茶碗に過ぎないのかもしれない。

茶の湯の清浄は、茶の湯の中だけで通用する清浄なのかもしれない。