新選茶の湯読本

井口海仙/淡交新社/1959年。

エッセイ集から面白い所を。

「立禮考」より:

東京へ遷都されてから、京都の町は、火が消えたようにさびれた。
それに加えて、時の京都府尹長谷信篤が、欧米の風潮にならって、お茶屋は勿論、芸妓、娼妓の営業を、抜き打ち的に停止を命じた。
明治五年二月一日のことである。
芸妓、娼妓は、営業停止と同時に、その抱え主から解放されたのであるが、しかし彼女達は、それから先きの生活の方法がない。これを見かねて、府参事槇村正直が、日ごろ親しく交際していた祇園お茶屋「一力」の杉浦次郎右衛門に協力して、婦女職工引立所を設立した。
(中略)
この婦女職工引立所は、その後もずっと續いたが、現在では学校法人八阪女紅場学園となり、私も、その学園の茶道教師をつとめている。

明治5年に、知事が売春を禁止した。馴染の女達が路頭に迷いそうなので、高級官僚(のち知事)の槇村正直職業訓練校を作ってあげた。
この学校で新島八重が働いたり、千猶鹿子がお茶を教えに行ったりしていたわけだ。

一方、さびれた京都の景氣を挽回させようと、明治四年(一八七一)に、京都御所の一部を公開して、全国で初めての博覧会が開催された。これが大変な人氣を呼んだので、翌五年三月に第二回を開くことになり(中略)営業停止を命じた各遊廓には、芸妓の手踊り等をやらせることになった。
そこで祇園町では、婦女職工引立所を設立したばかりであったが、早速、槇村正直が、伊勢古市で昔から行われている「伊勢音頭」を参考に、自ら「都踊十二調」を作詞し、(中略)
これが「都おどり」の始まりで、(後略)

京都の地盤沈下を止めるべく、博覧会を実施。ここでのイベントが「都おどり」の始まりである。

さて「立礼」であるが、万国博覧会である以上、茶席へ外国人も来るであろうから、椅子でないと具合が悪いと、槇村正直と親しかった前田瑞雪が相談を受けたのである。
瑞雪は師である十一代玄々斎と謀り、椅子点の手前を考案したのであるが(中略)
立礼式は、こんな由緒があって創案されたのである。いいかえると「都踊り」のために生まれた点前である。

そこで外人対策で考え出したのが立礼。
立礼は都おどりの為のお点前だったのか。めっさ勉強になった。


あと、槇村正直、暗躍し過ぎ。
遊び人もレベル完ストすると賢者になれるのだろうか?