正倉院ぎれ2 日本染織の生い立ち

正倉院裂が国産品を多く含む背景の説明。

まず、日本が古くから錦を作っていた証拠として、魏志倭人伝を挙げている。

この倭国(すなわちわが国)からの貢献品の実態がどのようなものだったのかについては、種々議論がある。しかしともあれ、魏人の眼からみて稚拙ではあろうが、倭錦、異文雑錦など、すくなくとも「錦」と記しているものがあることから推して、それらが絹製の文織物で、わが国で製産されたものだったことは動かせない。

邪馬台国大和王権は違うものかもしれない、という意見も思い付くが:

下って大化三年(六四七)、『日本書紀』によると、七色十三階の冠制というものが制定された。これは冠の色と種類によって位階をあらわす制度だが、そのなかに、大伯仙錦、小伯仙錦、車形錦、菱形錦と、文様によって名ずけたらしい四種の錦名がみえている。

常識で考えれば、役人の区別の為に貴重な舶載品を使うのはおかしいから、これは国産だったと考えるべきなのだろう。

さて以上、中国の遺品や文献のうえから四、五世紀から七世紀にいたるわが国の染織の様相を類推したのだが、じつは、それらをひとまとめにしたかたちで、具体的に実物に即して示してくれるものがわが国に残っている。
ほかでもない、さきにも触れた法隆寺ぎれが、すなわちそれなのである。

この人、章の引きがうますぎるんだよねー。