正倉院ぎれ3 法隆寺ぎれ

法隆寺裂とは。

法隆寺ぎれ──。すなわち法隆寺に伝存してきた染織品グループのことだが、正倉院ぎれがいまも正倉院宝庫に厳存しているのと違って、このグループの多くは、現在東京上野の国立博物館に収められている。

実際には法隆寺ではなくトーハクにあるらしい。なぜか。

明治九年(一八七六)、法隆寺は廃仏棄釈のあおりによって荒廃した伽藍の整備、寺門維持の資とするため、同寺所蔵の宝物の一部を皇室に献納することを願い出、同一一年裁下、これに対して金一万円が下賜された。

つまり一億円以上の代価で皇室に売ったわけですな。

法隆寺程の寺でも、廃仏棄釈を推める神道の長たる皇室に寺宝を売却するしか生きる道がなかった時代があったんやなぁ…。

さてつぎにこれら法隆寺ぎれの出自、由緒だが、残念なことに法隆寺ぎれは、正倉院ぎれとちがって、きれじだいに由緒を示す銘記をもつものがほとんどない。
(中略)
とはいっても、そのなかに正倉院ぎれとはあきらかに製作年代に隔たりがある(つまり古い)と思われる染織品があることはある。すなわち幡類がそれである。

幡…この場合は仏教儀式に使うもの。この様式で古いものがあるということらしい。
様式の説明が延々続くが、そこは省略。

さて以上、法隆寺系の幡は、遺品と文献の両面から、その製作年代が正倉院のそれより三十年から数十年までの巾でもって先行すると推定されたわけだが、つぎにそこに使用されている錦・綾の織文様を眺めると、(略)
結局のところ、法隆寺系の幡がもっている様相は、織物技術の点ではさきに挙げた五世紀の古墳発見の文織物と、また文様でいえば七世紀中葉大化三年の位冠の錦文と、大綱的にさほど変りがないことになる。
わたしがさきに、法隆寺ぎれは四、五世紀から七世紀に至るわが国の染織の様相をまとめて具体的に示している、といったのは、法隆寺ぎれのなかでもとくにこの一群の幡類をさしているのである。

つまり昨日の話の引きである、この時代の特色をまとめて保存している、というのはこういう事だったわけだ。なるほどね。若干トートロジーくさくはあるんだけど。

明日はいよいよ「正倉院裂がなぜ国産なのか」のお話。