南坊録に學ぶ
中村直勝/星野書店/1954年。
南坊録を愛する著者の「信じたい…でも…」みたいなアンビバな気持ちの詰まった一冊。
南坊録の由来、南坊宗啓とはどういう人か、立花実山がどう入手したのか。そういう基礎知識を一通り語った後、
南坊録の成立は、南坊録自らの語る所に依りて述べた通りである。
それを何故に再吟味する必要があるか。
それを他の資料に基いて再吟味しようといふ事は、南坊録の自分自身で語つたその履歴を信用しないといふ事になるのか。
正にその通り。
話題は南坊録の真偽に移る。
第一に、可怪しいぞと思はれる事は、立花實山が東上の途上、船中に使が來て、珍らしい書物五巻の存在を知らされた事である。
餘りに話が出來すぎて居る。
立花實山といふのが、そんなに茶道の方で有名な人でもないし、古書の蒐集家でもないのに、どうしてかゝる使が、しかも船まできたのか。
考えてみると、九州から大阪経由で参勤交替する大名はもっとふさわしそうな人がいる。
豊後岡藩には織部の子孫がいるし、大藩熊本藩には細川家の子孫もいる。四国からなら高松藩は官休庵を招聘したりしている。
確かに不思議だ。
第二の點、實山は元禄三年庚午の春閏正月廿一日大阪で宗啓の遠孫宗雪の手に南坊の遺品などあるを聞いて宗雪に會見し、墨引と滅後の二巻を見附け出した。
(中略)
然るに實山は明かに元禄三年庚午の春の閏正月と書いて居るが、元禄三年に閏月はない。
確かに。
岐路辨疑には元禄三年庚午の春の閏正月とあるし、元禄三年に閏正月はない。
第三の不怪しい點は、一巻一巻の奥に宗啓の消息とか、それに對する宗易の返書にして同時に承認書をかねたものとか、が添加されて居る。
(中略)
この邊なかなか一巻一巻に變化がある。
何心なく見て居ると、如何にも何のたくらみも無ささうにすらすらと運んであるが、それだけに何となく危いものがある。
ちょっと言いがかりっぽいが、いろんな所出来過ぎているのはその通り。
第四に可怪しいぞと思つた事は、宗啓の消息にある宛名すなわち宗易師公の名を書く場所の高さの點である。
(中略)
當時の書札の禮式によると師長には月日より上から、同輩には月日と同じ高さに、下輩には月日より下位に、其の宛名を書くべき事になつて居る。
確かにそうなっている。
斯く言つたからとて、私は南坊録が偽作本であるとか假作であるとかを言はうとして居るものではない。
最初に力説した通り、南坊録が茶道の聖典であり、利休居士の茶道精神を窺ふべき只一本の覗き窓である限り、南坊録の性質を充分に検討し、出來るだけ正確な知識を得、その取扱ひに能ふ限りの注意を拂つて置きたいから、念には念を入れて掘り返して見たのである。
まぁ要は「大好きな南坊録、難癖付けられ易いので、先に自分で突っ込んどくぜ」って事なのね。