南坊録に學ぶ2 心の至る所−草の小座敷

本書での著者の学びは、そう大層なものではない。
読み解くのに力が必要、なんてものは茶道聖典とは言えないだろうから、学びの内容がフツーなのはまぁ当り前の話。

「宗易、或時、集雲庵にて茶物語ありしに、茶湯は臺子を根本とする事なれども、
(中略)
猶委しくは和僧の明めにあるべしとの玉ふ」

当然、ここでの著者の学びは、草の茶だって真の茶と同じく難しいものですよ、という、まぁありきたりなものだ。

作者がひっかかるのは次の部分。

私には最後の一句が気に食はぬ。「猶委しくは和僧の明めにあるべし」−「これ以上の事は君の判斷に任す。判つてるのだらう君」、といふわけで如何にも南坊宗啓は利休居士からの皆傳免許である事を證明したやうな言ひ方をさせてあるではないか。要するに宗啓が「自分はえらいのだ、居士からはかゝる取扱を受けた自分だ」と言はんばかりの口調で、自分を押し出して、自分の姿を衆人の面前に立たせた所が、いや味だと思ふ。
何だか變な味が殘る。
茶人はもつともつと謙譲でなければならない。
(中略)
それを南坊宗啓は、こゝで、しかも南坊録の第一ヶ條で犯して居るのだから、些か悲しくなる。
(中略)
もし本當に南坊宗啓がこの通りの言で以て自分のエラサを押し出して居るのなら、私は筆を抛つて南坊録に學ぶ事をやめようとさへ思ふ。

私も以前そこに引っかかった。
http://d.hatena.ne.jp/plusminusx3/20110218

私は茶の湯の、禅への優越、という風に読んだが、著者は、僧侶が利休の威を借りていると読んだ。
…私は、著者程は利休のことを「茶聖」とか思ってないんだなと思った。