南坊録に學ぶ8 茶道聖典

最後に、南坊録自体について。

釋迦如來は、自分自身の手で何も書いて殘して居られない。
(中略)
孔子も亦自ら論語を著述したのではない。
(中略)
基督教のバイブルにしても同樣であつた。
(中略)
──とすれば、我が茶道に於いても、利休居士が自ら筆を執つて後世のために編著されたといふ書物はなく、居士の常々の言動をその弟子によつて一冊の書物に纏め上げられたものが「南坊録」であり、居士の日常口にのせられた訓育は、これに依りて窺ふより他に方法がない。

利休をキリストに比定する、というのは割とありがちだが、南坊録を他教の経典と比定するのはちょっと珍しいかな。

併しながら南坊録が、バイブルや論語や經典と同樣の軌道を辿つて出來たとすれば、南坊録たるや實に尊い存在となるのではないか。

論旨が逆だよ逆。

「本人筆でない南坊録は、本人筆でないバイブルと同じく、聖典で真正」みたいな発想がおかしい。

こう論旨を展開すべき。


南坊録は本人筆ではないし、たぶん利休はそんな事言ってない。

でもバイブルだって、本当いうとナザレ人イエスがそう発言し行動したかまでは検証できない。

大事なのは実際にそうだったかどうかじゃなくて、多くの人がどれだけそれを信じて来たか。

少なくとも幕末から大正まで、「利休とはこういう聖人である」とみんな信じてお茶をしてきたんだから、貫きゃいいんですよ。

南坊録がもし無かったら、利休なんて炉の灰を畳にぶちまけたり、蒲鉾見て退席したり、白布送りつけたりするエキセントリックな変人ですよ?それでも真偽問いたい?

…これでいいんですよ。