南坊録に學ぶ7 ながめ・ながめらるゝ心

紹鴎が、或る人からわびちゃの湯の心はどんなものか、と問はれたとき、新古今集にある定家朝臣の歌を引いて

例の句に対する解釈。

居士が此の見渡せばの歌を採用して、花も紅葉もない浦の苫屋の秋の夕暮を、稱へ唱へたのは、何等の人為的な施工をして居ない大自然の姿を、その在るが儘に見ようとする心である。
(中略)
之に反して、書院造とか臺子構とかのいかめしい人為的な荘厳は、お茶の道では不要である。茶道の重んずる所は人の道であつて座敷や道具は、その附属品でしかな
い。
寧ろ有つてはならぬものである。

まず一つ目。座敷要らないは言い過ぎじゃないかなー。特に最後の一行。

二つ目。紹鴎は侘び茶人利休の師匠なのだから侘び茶人、という視点に立っている。
花も紅葉もない冷え枯れた美意識は、紹鴎のゴージャスな道具に対しても適用できた、という感覚は無かったんだろう。

それでは花や紅葉のなき世界──浦の苫屋に、そもそもの初めから住めばよいではないか、といふ反問が出やう。
(中略)
また假りに、五六日の旅行をつゞけて見るがよい。計畫を立てた時には、あの温泉から、あの鐵道から、あの國寶を拝んで、あの料理でと、とても樂しいけれども、さて行つて見ると、何所も同じ秋の夕暮で、我が家が本當に極樂である事を、身にこたえて知るであらう。

この句に対し、こういう俗っぽい解釈を入れるのはどーなんだろーなー。判りいいは判りいいけどさ。

我が女房だけが、世界中で一番心許してものを言ひ附けられる存在である事を、身に泌みて知るであらう。
(中略)
旅をしてくるがよい。晴暉閣(かうした旅館があるか無いかは勿論知らぬ)に長逗留するがよい。そして美女にかしづかれてくるがよい。

この著者の、にじみ出る俗っぽさって嫌いじゃないぜ。
「茶道聖典」とかと距離感を感じるけどな。