茶 私の見方13 名碗

谷川徹三の「茶碗」より。

最初は茶道具に興味がなかったが、高麗茶碗に魅せられ、茶碗行脚の旅が始まる。

殊に「毘沙門堂」は素晴らしい。高松家の時にはこちらから人を介して拝見したいと申入れたのだが、高松家が出入りの道具屋野崎に取扱ひをまかせてあるといふので、燒出されて今は郊外にゐるその野崎氏の家を捜し当てるのに半日かかり、やっとそれでもつかまへて、八事の八勝館の茶室で、その待望のものを見るだけでなく、それで茶をのむことのできた時には、折から夏の暑い日であったが、清風懐に入るの思ひをした。

光悦では「不二」と「雨雲」が私は好きだ。「不二」は博物館で見ただけであるが、この品格は無類である。
「雨雲」は博物館でも見たが、大磯三井邸での大師會で、畠山会長のお相伴でこれで茶をのんだことがある。

井戸はほとんど皆いいが、
(中略)
喜左衛門は孤蓬庵で見せてもらったきりだが、有樂井戸は戦争中、松永耳庵翁の柳瀬の山荘で、これで茶をよばれたし、「筒井筒」は去年の秋、金澤で茶をよばれた。

まあこんな感じで「あの茶碗でお茶飲んだよ」自慢が並ぶ。

だから茶碗は實際に茶室でその茶碗から茶をのんで、初めてその存在を殘りなく自分のものにすることができるのだ。
置き合はせてゐる形を少し距離をへだてて見る。
その中で茶がたてられる。
温い肌を、兩手に、抱くやうにもつ。
双の手のひらに受ける觸感。
喫茶後の拝見。

なんかエロい、というかちょっとキモい表現。

普通でもこれだけのことをして、やっと初めてその茶碗のもってゐるものを自分のものにすることができるのだが、それだけでは實際は不十分なので、長い年月、毎日のやうに獨服し、時には亭主になってその茶碗で茶會でもするといふところまで行かないと本當のことは分からないであらう。

私には、いろんな名碗でお茶を飲んだ経験がない。
だから「名碗を理解するにはちゃんとそれでお茶を飲まないとね」と、実際に名碗で飲んだ人の意見は、傾聴せざるを得ない。

そういう人でさえ「持ち主にならないとね」と言っているのもまた、傾聴せざるを得ない。

でもその事が本当か判定するには、ある程度社会的に成功する、というプロセスを経て名碗で飲める人間関係を構築しなければならないわけで、先は遠い…というか無理だよなー、と思うしかないのであった。