茶 私の見方14 貴族趣味

肥後和男の「周邊子の立場」より。

私などはもとより茶人といわれるべきものではない。
時のお茶の會に顔を出したり、頼まれて茶に關する雑文を草したりするだけのことで、いってみればひとりの周邊子に外ならないのである。
ところが日本にはこういう周邊子が澤山いるらしい。
お茶をやりますとか、お茶が好きですとかいう連中でも大半は周邊子であろう。

耳の痛い話である。
が、著者は理由もなくこんな話をしているわけではない。

數百年ないし千年の傳統を持つ茶道は、今日では、巨大な文化の體系である。
これに通暁するためにはそれこそ生涯をかけて勉強しなければならない。
それにひととおりは然るべき道具も所持しなければならぬ。
これでは一般のお茶好き程度のものはまず周邊子の境涯に甘んずる外はない。

理由がわかればわかったで、耳が痛い話ではあるが。

そして著者の文の白眉は以下の部分。

お茶の歴史の社會的位置は何といってもこの貴族的性格である。
茶禪一味とか無の藝術とか、わびとかさびとか、冷えかれた風情とかいろいろいうけれども、これは貴族というコップの中での話で、決して民衆的ということはできない。

ものすごく悲しい納得力のある文章。

東山殿とか、織田信長、太閤殿下、蒲生氏郷、細川三斎など、昔の大茶人とよばれる人は全部大貴族で、千利休とかその子孫たちも、結局はそれに奉仕するものである。
手取釜ひとつで數寄をたのしんだものの話も傳わっているが、それも和製神仙傳の一つにすぎない。
かけ茶碗にこがしでもお茶はできるというのも、一種の理想論で、大體からいえば百圓の茶碗よりは十萬圓の茶碗の方がよい。

そーなんだよね。
やっぱり本当は金のある人の為の娯楽で、私が茶をやっている振りができるのも、そこに目をつぶっているからだよね…。