茶 私の見方15 ディストピア

肥後和男の「周邊子の立場」の続き。貴族性の話は恐ろしい思考実験に到達する。

やはりお茶は貴族的なものであるし、またそれでよいのだろう。
共産主義の世の中になったらどうか知らないが、當分は名席をしつらえ、名器をならべてやってほしい。
今後民主主義が文化的にも徹底し、志野や織部のよさが誰にでもわかり、井戸だの、のんこうだのいうものが、いとも簡単に大量生産されるような時が來たら、名器も蜂のあたまもないということになるかもしれない。

茶の湯の貴族性を、知識や道具の平等によって実現できてしまえる社会へ到達したら、そこに数寄は生き残れるだろうか?

「茶人よ、あなたは幸福ですか?」
「もちろんです利休樣。幸福は茶人の義務です。」

そんな感じのディストピアしか想像できない。

しかし人間の個性や能力の差は永久に消滅しまいから、實はいつまで立っても名器といった觀念は殘りそうにも思える。
(中略)
日本人はやはり、硬質陶器にポットでわかした茶よりも、手づくねの茶碗に茶筅で泡立てた茶を喜ぶ性情を失わないだろう。
そうしたところに茶の貴族性が殘りそうであるがどうであろうか。

もし伝統的なあらゆるものが模造可能になったら、「おやご亭主のお道具も喜佐衛門井戸ですか、これは結構な茶碗ですなぁ」などとはいくまい。
茶道具の美には希少性が関与している、という看破はおそろしい。しかもこれ柳宗悦の本なんだぜ?

だが茶人は手づくね茶碗を作ってでも個性を表現しようとするだろう。


画一化への反逆は大衆性の否定であり、つまりそれは貴族性としか言い様がないものだ。

もちろん、現在はそういう「悪夢の様な平等」は存在しない。
だが、状況が存在しないからといって、平素の茶の湯に貴族性が濃厚に含まれている、ということを否定はできないだろう。