茶道爐邊夜話16 用

茶の湯では、盛んに用(はたらき)といふ言葉を使ひ、學者はこれを内面的實行性などと名づけて居るが、吾々が茶の湯で用といふのは、臨機應變、其の時々に最も適した方法を採用し、處置を取るのを云ふので、この用の優劣に依つて茶の湯が非凡にも平凡にも、或は活きも死にもするのであるから、心ある茶人は用に就いては不斷の努力修業を惜しまないのである。

「はたらき」に解しての説明。この用語が解説されているのは珍しい。

これは禪宗の機によく似、常に活きて右より來れば右、左より來れば直に左に刀が走る二天の活劔の如く、何等淀む事なく、水の流るゝが如く自然に活きた行動が開始され、精神力の動くもので、其所に作意もなく、誇語もなく、當然あるべき或は行はるべき事が茶の湯に現はれるので、模倣でもなく計畫でもない必然である。

わかったような、わからんような。

  1. 作意はない。
  2. 誇張もない。
  3. 模倣でもない。
  4. 計画でもない。
  5. しかも当然の結果

とっさの思い付きのうち、結果的にうまくいった奴が「用」。というのは酷過ぎか。

これが謂所一期一會で、用のない茶の湯は全くの死物で、茶人として最も恥ずる所で、これを得んが為めに求道の途に入る人も多いので、古來用の出來る茶人の多くが禪を修めた人であるのは、この間の消息を語つて居る。
これがよく禪茶一味に結びつけられる理由の一つにもなつて居る。

茶味と禅味に通じる所がある、とはいうものの、茶味と禅味を同一視せず分けている所が著者の面白いところかも知れない。