茶道爐邊夜話15 圓能齋の功勞

町毎に茶の湯教授の看板の見られ、妙齢の婦人は申迄もなく、腰辨のサラリーマンも茶を知らぬと人前にも出られないといふ程、茶の湯は盛んになり、最早日本人の常識の域に達して居る有樣である。

昭和初期の茶の湯の状況。いくらなんでもちょっと盛り過ぎな気がする。
同時代の「実業の日本」を読んだが、茶の湯の記事自体は無かったしなぁ。

昔は、と云つても明治三十年位迄は、極一部の數寄者のみがやつて居たに過ぎない茶の湯が如何にしてこんなに急激に普及したかと云ふと、色んな理由はあるだらうが、茶道具の價格の上騰と、裏流の圓能齋宗匠の努力が最も大きな力をなして居ると思ふ。

昭和初期の認識では、茶の湯が復活したのは明治30年代以降。
実態としては明治10年代には復活していたのに、こういう認識なのは、明治20年代にもまだ困窮していた円能斎を身近に感じていたからだと思うので、この著者は裏の関係者なのかもしれない。

ここからあと、円能斎の困窮話が紹介されるが、有名な話なのでばっさり省略。

そして此所に一つ圓能齋の着眼點の非常に面白いのは、利休以來茶の湯は、大低の場合男子が主となり、女子は相伴に過ぎなかつたのを、全然反對に女子に主力を注がれた點である。
(中略)
その女子に主力を注ぐにも、唯慢然と茶の湯の稽古と云はず、禮儀作法とし、女子の必ず修得せねばならぬ常識として取扱つたのである。

茶の湯の女性化を円能斎(とその母)が推進していた、というのはいろいろ傍証はある。
しかし、こうも明確に書かれたら、次のような事を調査したくなるじゃないか。

  1. 教育指導要領での茶道への規定の変遷
  2. 他流派での女性人口の推移

特に前者は重要。何かが全国的に必須になったなら、それを指示する法令とか指導があった筈だもんね。

京都の女紅場のカリキュラムが、模範になった為…みたいな話だと面白いんだけど。
ま、今後の調査って事で。