茶道爐邊夜話17 慣

點前は教えたのは駄目、何時とはなしに覺えたのが良いと云ふ意味の言葉を、昔或る宗匠から聞いたことがある。
(中略)
つい最近、ある人の茶事に招かれて、同席した人々も主人も皆、子供の頃から席入を強要されて來た連中と來て居るので、勿論流儀は、千家の裏表もあれば石州もあり、數少ない不昧もあつたが、終始何の滞や不都合を來すこともなく、静かに半日を愉快に暮らしたのである。

他流派合同で、しかも昔からお茶を「やらされていた」人の集まり。

主人も久し振りの手前であつたので時々停電もした、正客が挨拶を忘れて、次客が取繕つた事もあつた。
茶入や茶杓の鑑定も全くお話にならない不都合なものではあつたが、それ等が茶事に何等障がないのみか、座興にもなつて陰氣になり勝の茶席の空気を適度に和らげ、席より下り露路に出た時の名殘惜しさは、今一度席に入り度い位であつた。

みんなで朧ろげな記憶をたぐりよせながらのお茶は、意外にも楽しいものだったと言う。

みんなが合意の上でふんわり適当茶事が出来れば、それはそれで一座建立。
少なくとも教条主義者が一人でも居て、自己主張していたらそうはならなかったろう。
こういう場所での教条主義は野暮にしかならないんじゃろうね。


ということは、お茶は極めずに適当なとこで終えた方がいいのかもしれん。
それで入口を広げて、結果裾野がひろがる方が、なんぼ役に立つか…。