普齋書入便蒙鈔11 薄茶の事

茶道便蒙鈔の記述:

(前略)
一 薄茶立る時ならひの心持あり。
濃茶はさむる事をいとひてさら/\と立る也。
薄茶ハ其いとひなけれバ。しづかに爰にて茶を立る手前の心得を眞に致すへし。
惣て薄茶の立樣一通り手塾すれハ。萬事の手前成能物也。
此ゆへに宗易も薄茶立る一通り。大事に心得よしめしたるとなり。
(後略)

薄茶にはコツがある。
濃茶は冷めちゃいけないのでさらさらっと点てる。
薄茶はそうでもないので、静かに真の心で点てる。
薄茶の点て方が身に付けば、どんな点前もいい感じになる。
だから宗易だって薄茶の立て方を大事にしていたよ。


…薄茶を真の茶と言うのは、先行する山上宗二記、ほぼ同時期の南坊録もそう。
茶道便蒙鈔の言う理由は山上宗二記の「濃茶ゆっくりしてると固まるからね」に近く、納得感がある。
こう考えると南坊録の「濃茶は飾りが真だから手前は草」は、的外れな気がしますわね〜。

普齋の朱書:

此ヶ條尤ニ候
濃茶ノ手前カナラス早ク立ルニハアラズ
ハヤキトコロアリ
イカニモシツカナルコゝロアリ
ウス茶トテモ静スキタルハヌルシ
中ニ立ヘキ手前ノ事ハ上手ニ至リヌレハ イカヤウトモ工夫アルヘシ

ま、概ねいいんじゃない?
でも濃茶の手前だからっていつも早く点てる訳じゃないよ。
早い部分もある。静かな部分もある。
薄茶だってシズカ〜に点ててばかりじゃ温いぜ。
どの程度の感じにすればいいかは上手になればわかるから、いろんな工夫しようよ。


普齋は宗偏の原則論に対し、メリハリを強調しているのだと思う。
宗偏だって別にメリハリいらないと言っているわけでないのでいいがかりに近い気もしなくもないけどね。