利休道歌に学ぶ

阿部宗正/淡交社/2000年。

たしかburieさんから貰った利休百首の本。
著者は仙台出身の業躰…という事は鈴木宗保枠かなんか?


ちょっとまじめに利休百首を考えてみたいと思います。
追句になっているものが多いので、追句単位でネ。

そんでもって、利休百首の内容を、どうこの業躰がネジ曲げマイルドに解説しているか、なんてのも確認したい所。

今回は最初の五つを。

その道に入らんと思ふ心こそ我身ながらの師匠なりけれ

その道に入ろうとして師を選ぶというときに、もう既にそれは師匠以上の自分というものができているということです。
(略)

特に異論はありません。「よく勉強する気になった、偉いぞ!」と言う事でしょうが、勉強する気になってもらわないと師匠業は成り立たないんでね…。格好良く性根の卑しい事を言っている、とも言えなくもありません。

ならひつつ見てこそ習へ習はずによしあしいふは愚かなりけり

(略)
その道を充分に習得していればそんなことはありませんが、中途半端に習いかけた人が他人のことをとやかく言ったりするものです。そのようなことのないようにという教えです。
(略)

業躰は「他人の言葉に惑わされず師匠の話を聞きなさい」的にマイルドに解釈しています。
でも多分、「学ぶ前からそれつまんなーいだのつべこべ言わず学べよ馬鹿」という極めて先生本位の発言が正解だと思います。

こころざし深き人にはいくたびもあはれみ深く奥ぞ教える

これは心の問題です。
熱心な人には十分に丁寧に教えるということ、いわゆる三日坊主的な感じではだめだということです。
結局教えるほうがきちっと教えないと、習うほうが三日坊主的になるから、教えるほうはきちっと丁寧に教えなさいということで、この歌は習うよりも教えるほうへの教訓だと思います。
(略)

ずばっと「これは心の問題です」という解説。いいですね。
「これは寸志の問題です」とは言えませんもん。

実際問題、「学ぶ側に気持ちがあれば奥伝くらい何度でも教えまっせ−」という事が千家にありえるでしょうか?
本質的には『や¥る¥き』が必要ですが、ここで言っているのはあくまで建前ですよね。

また業躰は「あわれみ深く」の所を「丁寧に」にもっていってますが、そうでもしないと上から目線過ぎるから、でしょうね。

はぢをすて人に物とひ習ふべし是ぞ上手の基なりける

(略)
お茶の稽古では大いに恥をかけ、宗家は恥のかき捨て場だと言われます。
(略)

異論はありません。

上手にはすきと器用と功績むとこの三つそろふ人ぞ能くしる

上手、即ち巧者になるための絶対条件は、まずすきということです。
よく言われるように、好きこそものの上手なりけりです。
第二番目には器用でなければいけない。
(略)
それで第三番目はやっぱり粘り強く、数を重ねて身につけるという心が必要だということです。
(略)

業躰は「お茶が好きで、器用で、根気が有る」と解説してますが、すきは数寄なんだから、「道具持ってて、技術も有って、経験もある」だと思います。

でも道具を持たない大衆を相手に集金する裏千家としては、そうは言えなかったんでしょう。非常におためごかし感が強いです。


全体にこのブロック、事業継続性を視野に置いた先生側の理屈、という感じですね。