なぜ家元茶杓に銘がいるのか


どこかにナントカ斎という家元が居て、百人の弟子がいるとする。

彼は弟子に尊敬されていて皆が彼の茶杓を使いたがっている。

あるいは、彼は弟子に尊敬されていなくとも、時代物でない茶杓の供給元は家元か坊主でないといけない、という不文律があるとする。

となると、彼の弟子は、みんな彼の茶杓が欲しくなる。


もし茶杓に銘が無ければ、茶杓は百本しか売れないだろう。

弟子は彼の茶杓を一本手に入れれば、とりあえずお茶ができるようになるからだ。


しかし銘に四季有り、時節あり、さまざまな面白ワードありとなり、それが茶会の最後にピリオドを打つものであれば、弟子の一人一人に必要な茶杓は何本になるだろうか?


そりゃ茶杓は何千本だって売れるだろう。

これが茶杓に銘をつけはじめた理由ではなかろうか。


でもこういったことは茶杓に限らないかもしれない。


室町の茶会記や、利休の茶会には季節感というものが大幅に欠けている。

これが現代になると、道具の取り合わせ、墨蹟、菓子、花、茶杓、さまざまなものが季節感をベースに組み合わされている。


江戸中期以降から現代までの茶の湯作法、常識、道具は、より沢山の道具を買わせる為に作為的に進化して来たものなのかもしれない。

つまり、「和のこころ」みたいなものは、案外金儲けの為に生まれたものかもしれないよ、ということだ。