茶道浦のとまや2 利休

本書…すなわち明治の裏千家オフィシャルの考える利休の略歴。

利休ト號シ抛筌斎齋ト稱ス
初メハ納屋輿四郎泉州堺ノ人ナリ
織田信長ニ従ヒ千姓ヲ賜フ

明治の裏千家は、「千」を信長経由で朝廷から貰った姓だ、と言いはるつもりだったのだろうか?
堺の商人が自称した…ではなにがいかんのだろうか?

豊臣秀吉ニ仕ヘ三千石ヲ領シ洛北ニ地ヲ賜ヒテ世々是レニ住ス

利休が三千石貰っていたのはいいとして、金納か物納かで貰ってるだけで、領地を貰い領地経営をやっていたとは思えないのだが。
なんで武士扱いしたいかなー。

あと、「世々」ったって天正十年〜最大十九年の最大10年やで。

(略)
織田有樂細川三齋蒲生氏郷荒木攝津瀬田掃部芝山監仏高山右近等其門ヲ叩ク者甚ダ多シ

そんなに織部嫌いなん?

天正十八年二月廿八日秀吉ヨリ死ヲ賜紫野聚光院ニ葬ル

そういえば利休は首が晒されその木像が磔にあう様な罪人。遺骸の処置はどうなっていたのだろう?

切腹が許されたんだから遺族にそのままわたされるんだろうけど、きちんと葬式ができたかどうか。その辺さっぱわからんな。

聚光院に千家の墓がある、ということと遺骸が墓にあるかは別だし、さらにいうと死の直後に葬式ができたかも別なんだよね。