茶道浦のとまや

千宗室(圓能斎)/福田錦松堂/1903年

毘尼薩台巌という坊さんが書いた序文が、売り込みすごいので全文のせる。

いにしへ茶實の、皇國に傳はりし後、茶儀の盛に起こりしは、中むかし足利氏の比なり、
繼ひて、織田豊臣徳川の諸氏も、をり/\、茶會を設けて、侯伯将士を、待遇し、治國平天下の一助とす、
北野大茶湯の、一時の名會もありて、つひに、皇國ひとつの、禮式ともなりしは、いとも/\、かしこきことにこそ侍れ、

北野大茶会を「名会」というのは珍しい評価かもしれない。
「皇国」の「礼式」となったのは「かしこきこと」という言い方、過剰すぎである。
茶の湯茶の湯。私的な遊びであって、けっしてそんな公式のものではなかろう。

此軍戰多事の時にいでゝ、喫茶の儀を定めたる、人々のある中にも、利休居士は、斯道の先匠にして、所謂る千家の祖なり、
その家代々茶博士にして、今に流儀の傳はるは、又尊むべきの至りならずや、
ことに、此伎によりて、千載の珍器、名人の傑作の、今に保存する、こよなき國家のさちなり、
贋偽の品ありといへとも、眞正のものは、徴古のひとはしともいはん、

千家によって流儀が保存された…事自体異論たっぷりだが、「国家の幸」とはいやはや。

居士は茶儀の、奢侈華美に流るゝを憂ひ、もはら、素朴を示されけるとぞ、
されは、心を正うし、身を脩め、家をとゝのへ、耳には松濤にたくふ、
沸濤の聲を聞て、心を澄し、口には深省を覺悟するの、清味を嘗め、平生心をして、閑雅静肅ならしむるは、けに茶道の基礎なり、

利休の美意識が素朴を示すものだったかにも大いに異論が。

王政復古のゝち斯道ます/\、盛昌に赴くかまに/\、初心のともから、
弊害を生じ、大意を失ふのみならず
千種百般の習ひあり、
作法定式のさま/\なるを、究めす、
知らさるを知れりとし、
許さるをえたりとするの、恐れありを免れず、ゆえに、
今の宗匠なる、宗室大人、一書を著し、家系を述べるを始とし、
さま/”\に示されしは有益の書なり、
これにはし書きせよと、いはるゝに、いさゝかかいつけ、侍るになん

明治維新の後、茶道はますます盛んになった…って書いちゃうと裏千家が明治二十年代まで困窮していたのが馬鹿みたいである。


国家礼式としてうやうやしくも仰々しく売り込んでいるが、明治の頃はこーゆーのがキャッチ−だったんだろうか。そうじゃなきゃのせねーか。


毘尼薩台巌は法華宗の僧侶。

前書きを大徳寺でなく、法華が書いているのもなんだか不思議だ。
この時期大徳寺裏千家がうまくいっていなかったのだろうか?