講座日本茶の湯全史9 千利休の生涯3
政治家としての利休の話。
利休と秀吉との興隆が見出せるのは、(略)
ことに両者の関係がいっそう明確になるのは、本能寺の変の後、山崎の合戦に勝利した秀吉が山崎に在陣している時である。
米原正義によると、利休が秀吉の側近として立ち働く姿が、「十一月十四日付藪中斎宛利休書状」に見出せるとのことである。
社長以下旅先で死亡した上、安土本社が炎上し、滋賀支社が分社独立し敵対。
社長の息子のいる三重支店は迷走中。
しかたなく姫路支店が本社機能を代行しようとしたが、姫路支店の正社員は支店長と副支店長だけ。
本能寺の変の際、織田政権に起きたのはこういう感じである。
能力があるなら猫の手でも借りたいだろう状態だが、武士ではない利休には武士への命令は無理であろう。
だから利休が何かしたとしても商人に可能な範囲のアウトソーシングに限られる。
ただ、この機会を利用し利休が次の天下人に接近したのは確かだと思う。
利休の秀吉政権における立場を明瞭にさせたのが、大友宗麟が国元に送った書状である。
例の「内々々儀者宗易」の話である。
こういう利休の政治的な地位の存在感が石田三成等に嫌われたのが切腹の原因の一つ、と著者はしている。
利休に政治的な影響力があった、というのはまちがいないと私は思う。
しかし、私がよくわからないのは、利休の権力がどういう形だったのか?ということである。
「内々の儀」であるから、公儀に属さない根回しを、利休経由であればに伝える事ができる…ということだろう。
だがそれだけだったのだろうか?
こういう非公式の取次は、えてして君側の奸になりやすく、公式の取次職を行っているであろう五奉行からしてみればうざったい存在だったろうが、この影響力は君側から外せば消失する種類のものでしかない。大変な警備状況で死を賜わるほどのナニがあったのだろうか?この時期の秀吉は失政はしていないから、楊貴妃を殺せと強要される玄宗皇帝ほどの事はない筈だし…。