講座日本茶の湯全史8 千利休の生涯2

利休の納屋業などの話はすっとばして

そのほかに利休が携わったと考えられる商品が、お茶と茶杓である。

お茶関連二業の話。

まず茶。

お茶については、上林掃部宛ての一連の利休書状よりいくつかのことがわかる。
(略)
若手の利休は、宇治茶師の中でも新興の上林家と手を組むことで、共に発展していく道を選択したようである。
(略)
利休は、茶の湯文化の興隆を目にして、高級茶が商品としていっそうの需要を伸ばすと考えたのであろう。

著者は上林家と利休書簡から、利休が上林家の取り次ぎを行い、宇治茶の成長に大きく影響した様に書いている。

利休がお茶を商っていても別に不思議は無いが、そりゃ全国の商人がそうであって別段不思議はないが、利休から他の人がお茶を買っている注文の書類、利休上林間以外の宇治茶販路が小さかったと思われる根拠の提示など、なにかそこまで言い切るほどの根拠はないように思える。
そもそも上林家が宇治の代官の様な地位があったからといって、他の宇治の茶商に対し独占的な地位を持っていたのだろうか?
また、本非を比べていた闘茶の時期には非の側の生産地として宇治茶は十分に成長していたんではないかという気もするし…。

茶の買い付けに成功すると、次に茶の湯の道具類の販路にも手を伸ばすのは、ごく自然な流れであった。
『江岑夏書』六四に利休が茶杓を商売にしていたことを示す具体的な記述がある。
(略)
ここには千家の茶杓の下削り人が列記されている。
(略)
しかし、千家の下削りは、彼らだけではなかった。
利休には「大せい(勢)在之」、宗旦にも「下けつり沢山在之」と記されている。
(略)
この数は、当然、自家で使用するに多すぎ、販売のために製作されたとしか考えられない。

この発想は無かった。

しかし、商売にするにしては、現在の利休茶杓の形態はおかしいと思う。

茶杓に署名なし筒なしで「利休作である」という証明がついていない。
であれば「利休作茶杓」を売るビジネスでなく「利休形茶杓」を量販するビジネスだったと思えるのだが、その場合慶首座などは「下削り人」と呼んでいいのであろうか?むしろフィニッシャ−だったんじゃないかという感じだが…。

あと、メインの下削り人が3人、その他にも大勢いたからといって、かならずしも同時にいたとは限らない。総理大臣には菅直人野田佳彦安倍晋三その他にも大勢いた、というのと同じかもしれない。