喫茶南坊録註解15 茶会記

南坊録の「会」。

この茶会記の時期を、柴山不言はどう考えていたか。

此ノ日記ハ何年ノ記ナルヤ。
此ニ去年ト云ヒ、此九月ト云ヘルハ、何年ナルカ之レヲ知ルニ苦シム所ナリ。

余ヤ頗ル考究シテ、此ノ日記ハ天正十年十月ヨリ同十一年九月マデノ者ナリト推定セリ。

不言は天正十年説を取っていた。

理由。

其ノ據トスル所ハ本巻(八)十一月十二日ノ記ニ、客トシテ笑嶺、幽齊、南坊同席せり。抑細川藤孝ガ薙髮シテ幽斎ト号セシ齣、天正十年六月初ナリ。
(略)

天正十年に名を変えた幽斎と天正十一年に死んだ笑嶺が同席できるのはここだけ、ということらしい。


また、

又後方(二一)正月廿七日ニ穴山梅雪アリ、
(略)
然ラバ天正十一年正月ニ此ノ会アリシヲ察スベキナリ。

「梅雪」を穴山梅雪とし、この会の帰りに本能寺の変で横死したとする。


本能寺の変天正十年六月なのに、十一年の正月にまだ堺に居た、というのはいかがなものか。山崎の合戦どころか清洲会議も終っているのだが…。


真面目で熱意のある研究者肌の茶人に、盛大に無駄な時間を使わせる羽目になった、というのが南坊録の一番の罪悪かもしれない。