淡交増刊 寛永文化と茶の湯3 守成の人 千宗旦

倉沢行洋 著。

さて、茶道史を大観すると、千里級までが創業の時代、その以後は守成の時代といえよう。
そして千宗旦は、守成の時代の最初期に当たって、その父少庵とともに、よく守成の困難を克服し、今日の茶道の隆盛を導いた功労者と位置づけることができる。

あとはこの数行で想像した通りの内容なので引用を省く。


宗旦は、守成の人。そうなんだろうか?


宗旦の息子3人は大名家に仕官し、仕官しつつ京都で家元制度を固め、三千家は現代にまで残り、隆盛を誇っている。

「宗旦は自らは仕官せずリスクヘッジし、息子達を仕官させ、千家を復興させた」という、結果から逆算して宗旦を持ち上げているだけではあるまいか?

そもそも「千家」はここまで続いたから「千家」というブランドになったのであって、利休の頃は利休個人が取り立てられもてはやされただけで、宗旦当時に千家と言う家祿があったわけでもない。

息子三人が仕官できたのも宗旦晩年で、こういったグランドデザインがあったとも思えない。

守成して家を守り、後代の隆盛を期していたと、勝手に解釈していいのだろうか?


人の命令を聞くのが嫌で隠遁してた、ただのわがまま引きこもりかもしんないじゃん。

本人は自分なりに好き勝手生きただけで、たまたま子孫が頑張っただけかもしんないじゃん。

子供の仕官に失敗してたら、自分は働きに出ず、長男は勘当、次男は塗師にし、三四男をプータロで過ごさせ、千家を断絶させたダメ親父として歴史に残ったと思うのだが、これを守成の人というのはどうなんだろうか?