淡交増刊 寛永文化と茶の湯6 宗和の意匠とその背景

岡佳子著。

この話、非常に面白い。というのも、

宗和について、一般に堂上公家と親しく交わった茶匠で、「姫宗和」といわれる華やかな茶風は、後水尾院等宮方一門に支持され、枯れは宮方の茶匠とまで評価されている。
御室窯にしても、宮方一門、直接には仁和寺宮の庇護下に開窯され、仁清は宗和の指導により、公家好みの諸作を作ったのだと理解されている。

私も持っていたこのイメージを、ぶちこわしにしてくれるからだ。

しかし、このように宗和や仁清の背後に当時の宮廷文化の存在を重視する見解に対して、わたくしは強い疑問を抱いている。
(略)
しかし『尚嗣公記』の宗和に関する記事は、以上の他僅か二例しかない。
しかも町方の茶匠といわれる千宗旦齣、しばしば近衛尚嗣を訪れ茶会をもっているが、宗和は茶会のメンバーにすら加わってはいない。
(略)
この宗旦との比較からも、宗和が宮方の茶匠とは言い難いだろう。

日記、茶会記にみる宗和は、公家と茶で親しむ茶人ではなく、むしろ町人、武士と茶を楽しんでいた茶人であるという。

このような事例から宗和は、茶を教授し茶事を行う茶匠というよりは、茶器の目利や斡旋者として堂上方との関わりがあったとみる方が正しいように思われる。

しかし、道具の制作者/斡旋人としては高名であった。

彼は茶会で徹底的に御室焼を使い、積極的に斡旋を行った。
(略)
それによって御室焼は町人や武家達の間に急速に浸透した。
彼等にとって魅力的であったのは、御室焼仁和寺門前で焼かれた「仁和寺焼」とも呼ばれる焼物、すなわち宮方御用達という権威をそなえた焼物であったことだろう。
(略)
それと同様に仁和寺焼を使用し斡旋する茶匠宗和も宮方の権威をかりることになる。

つまり、現在の宗和のイメージは、宗和がセルフプロデュースしたイメージを信じた顧客達によって作られたものであるということらしい。

千宗旦が宗和を「金盛うそつき茶湯」と批判したのも宗和のこの姿勢に対する皮肉ではあるまいか。

つまりは「消防署の方から来ました」ビジネスみたいなもんか。

茶会にみる御室焼について、「姫宗和」の華奢好み=色絵と解されている宗和にしては、色絵陶の比重が高くないことが注目される。

そして仁清が色絵にシフトするのは宗和死後だという説も。


ううん、勉強になったなぁ。