茶道文化論集30 宗湛と利休

秀吉に謁見するという主目的をはたした宗湛は、いよいよ数寄者の訪問と名物拝見に精を出した
(略)
秀長の茶会が終わったおりふし、利休から明朝茶会にお招きしたいと案内が到来した。
宗湛は急遽堺に戻り、そいて夜半を大坂に向かった。
これが利休が公私多忙で、茶会の予定もできない実情を示している。

なるほど。そういう読み方はしてなかった。

ということは、その利休茶会は、利休にとって「急にでもできる賓客をもてなす茶会」。特殊趣向じゃないわけだ。

亥正月十二日朝

一 利休御会 大坂ニテ 宗湛宗伝両人

フカ三畳 四寸ノヰロリ、五徳スヘ、釜アラレウバノ口鬼面 床ノ向ノ柱ニ高麗筒ニ白梅入テ、手水ノ間ニ取テ、床ハシダテノ大壷置テ網ニ入、次ノ間、小棚ノ下ニ土水指、唐也、御茶尻フクラニ入、井戸茶碗ニ道具仕入テ、土水覆 引切
(略)

深三畳の部屋に囲炉裏を切り、釜がある。
わざわざ五徳据え、と書いてあるのは、炉+釣釜の茶ではない、ということだろう。
天正の利休時代の茶には流行らない手法で、宗湛の博多の茶が、随分と流行遅れだったのかもしれない。
床に花→茶壷というのは判る。
まだまだ茶壷の時代であり、墨蹟の重要性は低かったってことだ。

次の間に小棚を置き、そこに水指があるのか…。

で、ここに山上宗二記の、利休大坂深三畳を再確認する。

この、細き三畳敷がそれだろう。

…こんなトコに炉を切って、となりの間から茶を点てたのか…。使いにくそう。

待庵も隣の水屋で茶を点てた説があるし、この時代の利休のお茶は別室で点てるもの。主客はもっと歴然としていたんじゃなかろうか?