茶道文化論集29 神屋宗湛

同十四年、秀吉は九州討伐の準備にかかった。
(略)
実は、関白殿下となった秀吉は、早くも大陸遠征の野望を抱いたのである。
それには、前進基地として博多が重要となる。
秀吉は博多進駐を目ざした。
(略)
この準備の一つとして、しかも戦略の要須として博多町人の抱え込みがはかられた。
(略)
かくて天正十四年、秀吉から宗湛に上洛が要望された。

別にこの著者に限らないんだけど、どうして神屋家を「博多の豪商」として認識しているんだろう?

博多はこの時期、戦乱で焼亡していて、秀吉が九州へ行って復興しなければそれでおしまい、そういう状況。秀吉は博多にとっては投資家であり、強い立場だった。「宗湛を接待しなければならない」理由が全く無い。むしろ宗湛が秀吉を接待すべき状況である。

しかも、唐入りの前進基地は肥前名護屋…つまり唐津である。
結局博多関係ない。
また、博多が重要なら、島井宗室などの他の博多商人も呼ぶべき所である。


宗湛の神屋家は、毛利家の御用商人であり、石見銀山の開発者である。
世界の銀産出の三分の一を支えた銀山と、その技術も得ていた。

この時期毛利氏と豊臣氏石見銀山の共同管理をしていたが、秀吉からその収入に関する御礼とも考えられるし、あるいは秀吉は、銀山技術の獲得をもくろんでいたのではないかとも思える。

中国貿易で富を得ていた博多商人に、中国征服の片棒を担がせる…という発想が、どうも納得できないんだよな。