茶道文化論集31 箱崎松原の茶会

天正十五年正月、関白秀吉は宇喜多秀家を名代とし、弟の豊臣秀長に十五万の将兵を授けて九州遠征に先発したが、越えて三月一日、自ら十万(呼号の数字)の軍を率いて大坂城を出発した。
(略)
秀吉は箱崎に腰を据え、随行した利休や宗及の茶をたのしみ、また将士や町人らにこれをふるまった。

ということで利休の九州行に関して。

九州で利休と言えば、南坊録のいう箱崎松原ふすべの茶…野点のはじまり、という奴だと思うが:

幽斎は、この北九州の旅に麗筆をふるい、『九州道の記』という紀行をのこした。
(略)
関白殿、箱崎の松原にすヽまるべきよし有て、各召具せられて、しばし御遊興の事あり、おほみき(大神酒)まいり、謡ども有りて

南坊録以外に、それなりの状況証拠はあったわけか…。

ただ:

この八日に宗湛は箱崎に参上して秀吉に御目見し、前述のように博多の復興に尽力するよう命ぜられた。そして同十三日、宗及の茶会、翌十四日に利休の茶会に参じた。

一 利休老師会 宗湛 宗室(島井) 宗仁
フカ三畳、カヤブキ、カベモ青カヤ(略)
(略)
利休は箱崎の燈籠堂を宿所とし、深三畳の数寄屋を設けたのがわかる。

利休は野点するまでもなく、茶室をわざわざ構えたみたいである。
そりゃそうか。雨が降ったら茶ができなくなる茶堂なんておかしいもんな。

これらの上方茶の湯の実績が、地元に伝承として残り、南坊録の成立に一役買った、というわけか。