人治と法治

利休の賜死に関しては、石田三成との対立が世にいわれるところである。

「公儀のことは秀長に、内々のことは宗易に」というもやっとした人治主義に対し、性格のきっちりした三成が対立し、庇護者でもある秀長の死をきっかけに、対立が表面化。結果利休は死ぬことになった、というストーリーである。

判り易い。

でも何か変だ。

なんでかというと、石田三成も人治の人だからである。

石田三成といえば、五奉行としてブイブイいわせてた人なんだが、きちんと明文化された
法に基づき、決められたポジションを守ってその政治を行ったの人ではない。

もやっと秀吉が任命した、もやっとした行政担当官僚であり、政権の力を背景に、適当に豊臣政権を采配していた男だと思う。

なので、「きっちりした」三成が、「もやっとした」人治主義の利休を排除して、自分の仕事のし易いきっちりした体制を組んだ…みたいな歴史観は違うんじゃなかろうか?
実際利休が死んだから豊臣政権の集権化、組織化が進んだという証拠もないわけだし。

むしろ単なる人治主義者どうしの権力争いでしかなかったのじゃないだろうか。

いや、もっというと利休の方がきっちりした人かもしんない。
なにせ利休は茶室に曲尺を持ち込むきっちりさんなわけだしな。