禪人利休の生涯2
利休の生家に御茶があったか否か?
この件に関する確定的な論文は見当たらないが、私は利休が生まれた堺の状況から考察して、町衆の御茶が利休の生家に於いて行われていたと推理する。
利休が生まれた時期に遡れる会記はないので、記録としてはない。
ただ珠光没後20年ぐらいだから、堺に茶の湯が入っていても全然変ではない。
しからば、堺の茶とは如何なる御茶であるかを推理してみると、情報交換の手段として朝茶が行われていたと思う。
(略)
旦那衆もゆっくりとは寝て居られない。自宅や集会所で同朋衆と談合が始まる。
今でいう情報交換である。
朝から宴会というわけには行かないので、手段として用いられたのが朝茶である。
上記同朋衆は同業者ぐらいの意味だろうか。
ここで旦那衆の情報交換で朝茶が自然発生した、みたいな説は独特である。
闘茶由来でも、会所の話でも、禅の茶礼由来でもないのが面白い。
十七歳で北向道陳、十九歳で武野紹鴎に茶を初めて学んだという従来の説に私は否と申したい。
利休は生まれながら堺の商家に育った自由貿易のリラックスした茶が身にしみていたのである。
したがって、利休の茶は珠光流れの紹鴎茶道によって理論づけられ、磨きがかかったというべきで、最も肝要なのは生家に茶があったということである。
利休の茶は、自由な家庭の茶で、道陳、紹鴎などから理論を学んで成長した…というちょっと変わった持論。
闘茶由来にすると、利休のお茶は闘茶由来になってしまう。
会所の茶もある意味闘茶由来だし。
禅の茶礼をベースにすると、利休が禅を持ち込んだようにはできないしなぁ。