禪人利休の生涯6
天正十三年十月七日、晴天。
日本の茶道史上、空前絶後といわれる天皇への献茶会が、京都御所の小御所において催された。
(略)
殿下様(秀吉) 何レモ新ラシキ御道具
一、台子 木地ノ棚ニ伊勢天目
天目台 木地金ニタミス
一、御茶入 なつめに菊ノ文、蒔絵ニ〆左右ニナラベテ
一、御釜 新ラシキ釜ニ菊ノ文、前ニ四ツ、後ニ四ツ、
一、柄杓立 金
一、建水 金
(略)
というわけで禁中茶会の話。
以上の禁中茶会について私考を述べると華麗なうちにも清楚な感じがする。
この事は秀吉の豪華に対して利休がセーブをかけていることがよくわかる。
たとえば秀吉は金箔貼りの台子を主張したと思うが、木地の棚にしたのは利休の美意識であったと思う。
(略)
これ等を想定するのは、この日より三ヶ月後に黄金の茶室が同じ小御所で行われたからである。
この時の茶道具と比較して、すべて黄金を主張する秀吉に対して利休居士は桐の木地を主張した。
この時は初めての禁中茶会であったので茶頭利休の取合せを採用したが、三ヶ月後の黄金茶会で、秀吉の我儘通りすべて金づくしで押し通したのは秀吉が公卿共のオダテに乗ったとしか思えない。
いや、初回も十分キンキラだと思うぜ。
単に黄金の茶室が間に合わなかっただけじゃないの?
利休の趣味は侘びで、秀吉の趣味はキンキラである、というのも先入観に過ぎないし、そもそもキンキラと控えめの折衷案にするのは利休らしさなんだろうか?
そもそも第1回の茶会が利休プロデュースで、第2回の茶会がそうでない、という証拠もないわけだしな…。