禪人利休の生涯7

天正十五年十月一日、於北野神社。
太閤秀吉は京都、堺、奈良に高札を立てて、
「来る十月朔日北野松原において茶湯を興行せしむべく候。貴賎によらず貧富にかかわらず、望みの面々来合せしめ一興を催すべし」
として美麗を禁じ、倹約を重じる布告を出しながら、拝殿真正面に「黄金の茶室」を飾り、天下の名品ぞろいの秀吉コレクションを展観し、関白殿下の意向を誇示した。

ということで北野大茶会の話。

北野松原における大茶会は日本茶道史上画期的大変革のみならず、日本の文化史思想史の上からも特筆大書すべき革命である。
(略)
以上七ヶ条を今様に解釈すれば茶道の大衆化、民主化である。
先君信長が提唱した「茶の湯政道」の否定である。
信長が特別に許可した大名以外には茶の湯を許さなかった武将の茶道を、百姓、町人誰でもよい、抹茶を持たぬ者はこがしでもよい。茶室を持たぬ者は誰でもよいとして大衆化
に大いに理解を示した庶民宰相のように見えるが実態は真反対である。

信長の茶の湯御政道は「配下の武将は武将の仕事があるからお茶みたいな趣味は許可制ね。みんなガンバレ、ガンバレ」みたいな話だと思うんよ。
なので庶民の茶の湯はもともと規制対象外。
北野茶会の高札はある意味それを天下人の下に囲い込む思想制限ではある。

北野神社正面に特別席を設け、(略)
一見大衆に深い理解を示しながら他方天下様の御威光を誇示している。
一包に侘び茶を容認し、一包に王侯貴族の優位を示す矛盾を如何に解釈するか。
このギャップが行くゆく利休との葛藤となり、超えられぬ境涯が利休の命まで奪う悲劇となるのである。
(略)
利休居士が提唱した侘び茶が不幸にして成り上がり者の秀吉には理解できなかったのである。秀吉が生まれながらに持つ天性の侘び精神を自ら否定したのである。

利休は禅で侘びでなければならない、という前提と、秀吉が利休を殺した、という事実。
さらに桃山の絢爛な文化から、この結論にたどり着くのはたやすい。

でも、それだと秀吉が利休を重用する理由が全くないんだが…。

ここまで趣味の合わない人をディレクターに雇うプロデューサーの気持ちが判らん。
北野大茶湯を利休の力なしに行えるなら、利休はなんの為に豊臣政権の二大巨頭であったんだろう?

利休を聖人にすればするほど、周りを俗人にすればするほど、政治家利休の意味合いがぼやけてしまう。