松花堂昭乗8
日本・支那に於て書は繪畫と其の軌を一にし、随つて趙子昴・董共昌・文徴明等の如く、書道に長けたる者は同時に繪事に於ても造詣深いのが常である。
昭乗また其の例にもれず、彼の書道はやがて一方に順致あり風骨ある絵を畫かしめた。
というわけで昭乗の画風。
昭乗からあまり狩野派の匂いを感じない…。
狩野派は先達の模倣でできているから、模倣してないならもう狩野派でない気がする。
狩野永徳の後を承けた山樂は秀吉の恩顧を蒙つたが、大阪没落の後は男山に來り暫く瀧本坊に滯留した。
當時幕府は大阪方浪人の探索嚴重を極めた。
昭乗は幕府に申出て山樂は畫匠で武人ではない。
東福寺法堂の山樂の畫いた龍の傍に大谷刑部少吉次畫工に命じて之を圖すの文句あるを證としたので幕府も遂に之れを赦したといふ。
狩野山楽は元浅井氏の家臣筋で永徳の養子に入り、血筋から淀君等に重用され、幕府の疑いを受けた。
昭乗がこの人を庇護できたという段階で、昭乗が豊臣秀次の落胤というのは無さそうに思える。
昭乗は畫法を山樂に訊いたのであるが其の格を守つて其の格を用ひる事なく自然の人に越えたる風を畫いた。
学んだけど結局使ってないんかい!?
意味ねぇ!