松花堂昭乗9

昭乗の逸隠數寄の生活は蓋し西行法師を慕つたものであらう。
男山は都に近く修行には困難であるから、大和吉野山の奧へ行かうと思ひ立つた。
或夜しばしまどろむと、夢の中に知らぬ翁が現はれて大菩薩の仰せとて
 こと山のもみぢをたづねゆかんより
  あふぐたかねのあけの玉がき
と示されたので、昭乗は八幡神も我が隠棲の志あるを御覧になつたのであると悉く思ひ本社に參詣し、これより男山を離れる事を思ひ止つた。

「山奥に引き籠るなんて事いわずここでがんばんなよ」と八幡神が言ったから、昭乗は来客可能な都会で茶の湯の交流ができたわけか。

なんて甘やかす八幡神なんだ…。

昭乗は小堀遠州に茶式を問ひ、所謂遠州流を修めた。
遠州古田織部正重能より茶湯を受けて新たに一流を創め、自ら孤蓬庵・轉合庵と號し、遂に将軍家光の茶道の師となつた。
彼が伏見奉行に補せられたのは元和九年で在職二十四年の永きに及び、此の間に 昭乗 との交渉もあつたのである。

まず、織部は1615年死去なので、1623年に将軍宣下の出た家光の将軍師範はできない。ふつうに秀忠の間違いか。

ここにも書かれている通り、遠州が伏見奉行として京都常駐しはじめたのは1624年。
ここから茶の湯を学んだとしたら、昭乗42歳の手習いである。当時のインテリとしてあまりに遅すぎる。
昭乗は別段普通にお茶をやっていて、その上で遠州と交流したというだけで、遠州からお茶を学んだ訳ではあるまい。
茶の湯に道統とかを求めるようになった後世の伝説だろう。