新修裱具のしをり13

墨蹟ものでは殊に筆者の資格を吟味して、それ相当の表装を選択するので、此事については近衛家熈公もかう仰せられて居る。

表具ノ取合ト云フコトハ第一ニ一軸ノ筆者ヲ吟味シテ、此人ハドレホドノ服ヲキルベキ人ゾト工夫シテ、其人相応ノ切ヲツカフコト是第一ノコト也、今ノ人沢庵・江月・利休・宗旦ニ古金襴ヲツカウトハ何ゴトゾヤ、不相応ハ勿論、イト文盲ナルコト也、古キ表具ニカヤウナルハ一軸モナシ。

近衛家熈は「分相応」を表装のルールとして提示している。
彼に言わせると、利休や沢庵とかに格の高い表装をしたらいかんという事のようだ。
だって高僧でもなんでもないやん、という事の様だ。

全く同感である。

右の説の筆者を吟味して表具することは茶道の掛物に於て詮議が喧しいので、石州寸法書から品位賞翫の沙汰を示さう。

墨蹟にても画にても紙、絹のかまひなし。
画は墨画は紙を本とす。彩色は絹を本とす。
墨を付けたるは其祖師の身を写すと云心にて用ひる故、文字も絵も同じ事なり。仏像は其絵を表具するなり。筆者にかまひなし。
たヾの絵は其筆者を賞翫の表具なる故に、祖師の絵ばかりを用ひ来る、古来の古実なり。
画の讃(あるもの)の表具、讃は画よりも上の知識たりとも其構ひなし、絵の威光を賛する故也。
絵も文字も同じ事なり、其内にかけ画は書院道具、文字は数奇屋道具なり。
祖師の墨蹟表具は賞翫の切を一文字に用ひ、其次中、其次上下なり。
絵の表具も切の仕やうも右同前。
祖師には等一の賞翫金紗なり、其次金羅(略)

石州寸法書では「最初なんでもいーんだよー」的なことを書いてあるんだが、その後何十行にも渡って、祖師の本紙にはどういう布を使って、将軍はこう、天子はこう、官人はこう…みたいなのが微に入り細に入り書いている。
こっちはこっちで「格とは何か」の定義でしかない気がする。
でも「利休は祖師と同格かどうか」は書いてないので、別に問題ないような。