けいこと日本人12

礼儀は所・家・人のそれぞれで種々さまざまです。
(略)
縁あってこの道に入られた方に、礼儀を指導するのは教師としてのつとめです。
相手がいかに年長でも、稽古中は弟子ですから、それを注意するにためらいがあってはなりません。

礼儀が師弟間の潤滑油であれば、先生には弟子に礼儀を指導する必要がある。

ただそれが昂じると、尊大な思い上がりや不必要な干渉が起きます。
茶道の稽古をされた中の実に多くの人が「お茶の先生ほど『和敬清寂』をわきまえない人はいない」と歎いています(もちろん立派な方もたくさん存じ上げていますが)。

あ、来たよ。この話。

お茶室では実に礼儀正しく、道具の一つ一つを見事に誉め上げていたお客が、柴折戸を一歩出るなり「なによあのお掛軸」と、一から十までこきおろす。もともと茶道はあらゆることに気をくばり、きれいに能率よく物ごとを処理する技術を学ぶ稽古ですから、その専門家であるお茶の先生の、ハードウェアとしての気のつき方は、常人の及ぶところではありません。
反面茶道には足るを知る心・いたわり・愛もあるはずです。
そのソフトな心を忘れて、ただ落ち度を責めるだけの先生(これは茶道に限りません)のいかに多いことか。
陰口の利き様・巧言令色のかげのいやらしさを身をもって躾けている先生。これでは茶道の面白さ大切さは知りながら、子女を入門させることをためらう人があるのも当然ではないでしょうか(お茶の先生、ゴメンナサイ!)。

料理の善し悪し、点前の善し悪し、道具の善し悪し、飾りの善し悪し、掃除の善し悪し…茶道が「道」を標榜する以上、どれも理想があってのことで、到達点に果てはなく、結果として及第点が果てしない高さになってしまう。

これはもうしょうがないことで、「総合芸術」とやらの悪い面が出てしまうんですなぁ。

ましてや「カネワリ」「古法」だのいいはじめると、どんな茶事も難癖がつけようが出てしまう。

これはもう茶の湯の宿痾だと思います。これなしに求道は成立しないというか。