ゆがみ中柱と袖壁

数寄屋に関して勉強してきて、一つ疑問ができた。

我々が台目の茶席で慣れ親しんでいる、中柱と袖壁と、あと壁の透かしの発明は、いつ、誰によってなされたのだろう?

利休は1畳半座敷を作ったと伝えられているが、壁は上から下まで塗ってあり、ゆがんだ中柱でもなかった。

これは現在の今日庵を見ても判る。

というか、元来の利休流にはゆがみ中柱の発想は無かったのだろう。

こういうのの先駆者はおそらく織部の燕庵だろう。

松屋久好会記での「中柱」の既述の初出は、慶長六年十一月九日、織部の座敷である。

座敷三条大、床柱クリ、中柱クり、ヨコヌキケタ也

とあるから、現代の燕庵形式にかなり近いものであったんだと推測される。


逆に言うと、利休の2畳や1畳半では、袖壁の下がくりぬかれていないので目の前に壁があって客は息苦しかったんじゃなかろうか?