数寄空間を求めて7

この火燵、いつの時代に始まるものか定かではない。
しかし、遅くとも室町時代には使われている。まずその例から見ることにしよう。

というわけで突然の火燵(こたつ)の話。
茶の湯と関係なさそうじゃねぇ?ところが。

『蔭涼軒日録』によると、延徳二年(一四九〇)十月、相国寺松泉軒で火燵と炉縁を作っている。
(略)
火燵がどのような姿だったか、残念ながら具体的な記事がない。
炉縁とともに作っている点からみて、やぐらの中に炭櫃を置く形式でなく、地炉─床を切って作る炉─の上にやぐらをかぶせる形式らしい。
(略)
作った大工の名前を整理すると(略)合計八人の手間(略)を要したことになる。
火燵と炉縁作りが相当に手間のかかる仕事だったことを示している。

こたつと、炉縁が同時発注されていた、という記録がある。

近世初期の火燵を知る史料がある。宝永六年(一七九〇)陥穽の宝永度東山院御所の図(宮内庁書陵部所蔵)のひとつ、「御火燵櫓之図」と題する図がそれである。
(略)
一見したところ長方形のようだが、記入寸法によると一尺九寸の正方形である。
(略)
やぐらを炉の上に置き、ふとんをかぶせて暖をとるという基本的な使い方は、すでにこの時代に、いや先に見た十五世紀末にはすでに完成していたようだ。

昔、こたつは炉の上に櫓を立て、そこにふとんを掛けるものだった。

炉の上に設置する、という意味で、こたつと、炉縁が同時発注されたのはむしろ当然のことだったということらしい。

火燵の大きさは(略)やぐらの寸法で一尺八寸角ほどのものが圧倒的に多く(四十三例中二十七)、次に多いのは一尺六寸角(同じく八)である。
(略)
茶のための炉の大きさが、いつ、そしてどのような原因で一尺四寸(あるいは一尺八寸)という大きさに固定したのか、いくつか論考はあるようだが、はっきりはわからぬらしい。
焼火の炉との関連を先に推測したが、以上に見たような火燵の存在は、やぐらを取り去れば炉そのものであるゆえ、炉の大きさを決める要因のひとつに何等かの関連がありそうな気もするのである。

んで、その頃のこたつサイズは現在の炉のサイズより少し大きいが、なにかしらの関係がありそうと著者はいう。

面白い。

だが、茶の湯の炉がこたつ由来だとしたら、「こたつの茶事」みたいなのが伝わっててしかるべしとも思うんだよなぁ…。