南方録と立花実山11

「南方録」は実山の編集あるいは著作ではないかといわれながらも、それを直接的に裏づける資料は未だ見つかっていない。
しかし実山の死より四、五十年後の福岡の茶人許斐積翠が著した「南派茶伝集」の中に次のような史料を見つけることができた。

実(山)公在世の時より、古織(古田織部流茶道)のともから此流派をそしりて、南(方)録一部古書にあらす、実(山)公述作の由風聞有けるを、黒田一貫居士伝へ聞て申されけるは、其そしる人々は此の一部を熟覧なく、只風説をのみ信する輩なるへし。
かく斗の全部いかに云とも実山が分際には及まし。
よしさもあれはあれ、此全部実山か作せるほどの実山ならは利休の再来なるへし。

黒田一貫は実山の茶友である。

南方録は実山生前から、偽書の噂が流れていた。
なるほど岐路弁疑を書くわけだ。

んで実山の茶友が「実山には無理じゃね?もしあんだけ書けたら実山が利休の再来でいいんじゃね」と回答したと。


我々が知る利休の言葉の多くは南方録によるものだ。
特に哲学的な奴はだいたいそう。
茶話指月集とかだけで利休像を構成するとへんくつ親父にしかならない。

だが、この茶聖利休は南方録の造り上げたもので、ほんものはこんな聖人ではない「かも」しれない。

そういう意味で南方録の著者…実山かどうかは分からないそいつは、利休の再来でいいんじゃないだろうか。
そもそも我々の思う利休を生み出したのが南方録の著者なのだと思う。