大日本茶道学会

茶道流派は宗教のアナロジーで考えやすい。利休、という殉教者かつ茶聖の権威をどう考えるか、が宗教的だからだろう。三千家カトリックに。大名茶は英国教会に。元禄の世に、立花実山は南方録で利休への回帰を提唱した。こいつは宗教に例えるとマルチン・ルターの様なポジションと言えるかもしれない。

では、大日本茶道学会はプロテスタントだろうか?

実は大日本茶道学会はそのアナロジーでは語りにくい。

制約打破、秘伝開放、茶道本来無流儀論。
各流派のいいトコを集めて、おもてなしの心を発揮しよう。

こういう流派なので利休を尊敬しないわけではないのだろうが、権威までは認めていないみたいだからだ。強いて言うなら汎神論かつ敬虔な無宗教、というのがアナロジー上ふさわしいポジションかも。そう考えるとごくごく日本的な存在なのかもしれない。


「各流派を参考に新流派を作ろう」という大日本茶道学会の設立(1898)は「各国言語を参考に新言語を作ろう」というエスペラント語の発表(1887)に近い。家元独占の秘伝を民衆に、という意味では第二インターナショナル設立(1889)の時期も重なってる。

19世紀末のこういうムーヴ(笑)と大日本茶道学会の設立との関係が気になるところ。


ぱっと見、大日本茶道学会は、割りと私に向いているかもしれない流派だと思う。

ただ、1世紀を過ぎて、その理念は今もきちんと生きているのだろうか?その辺になると内部に入らないとわかんないんだろうなぁ。

でもなぁ。父が会長、息子が副会長、という体制は家元制の言い替えにしか見えねぇ