お稽古の意味
お茶を習う、ということはなんなのだろう?というのがつねひごろ疑問としてある。
教室での練習はお点前の練習+水屋仕事。である以上、全員が亭主になるべくトレーニングを受けている筈。
でも、自分が亭主となって、客を呼ぶ様な茶会を開く事はあるんだろうか?
茶室が無いとか道具がない、というのは置いておいて、相手が居ない、という問題がある。
妻母義母は茶の嗜みがあるから、お客にはなってもらえるだろう。
でもそれ以上招ける様な交友関係ってのは、実際問題無いな。
私は茶の湯では初心者だが、40にもなる男だから、それなりにいろんな趣味があり、それなりの趣味のつき合いもある。でも必ずしも数寄を解するつき合いではないし、部外者をひっぱりこんで茶の湯に染める、というのも気がひける。
茶会を開く見込みもないのにお教室に通っているのはなぜだろう?
この問いにはまだ答えが出せてない。
多分何かを教わる事自体が楽しいと言うことがあるんだろうけど、これって用の美という考え方からすると、美しくないね。