棗と中次

茶話指月集に以下の記述がある。

宗易が盛阿弥に「棗は、漆の滓をまぜてざっとぬれ。中次は念を入れて真にぬれ」といいし。

茶話指月集は「宗旦が『利休がこう言ってた』と言ってた」と藤村庸軒が語った…と久須見疎安が記述したものだ。

本当に利休がこういったかは判らないが、少なくとも記述した時点では、庸軒も宗旦も利休もこれを是としていてもおかしくない美意識、と疎安は判断していたと思う。

でも本当?

いろんなとこで棗って観ているが、未だ塗りの粗い棗に出くわした事は一度もない(もちろん一閑張は別よ)。

本当にこんな美意識は存在したのだろうか?

自分でも棗を作っているけど、ざらざらのまま完成させたりはとてもできないなー。