お茶と京都
「お茶」といえば「京都」。これはセットで連想されるのではないだろうか?
しかし、お茶はいつ京都のものになったのだろうか?
侘び茶の成立以前。京でも茶はされていたが、別に京に限られた話でなく近畿全般の事象の様に思える。
紹鴎も利休も堺の商人だし、秀吉は北野で茶会をやった人物だがどうにも大阪のイメージの強い人だ。というか、大坂夏の陣での堺焼亡まで、お茶は堺商人のものだった様に思える。
再興した千家が京都にあったから?可能性はある。しかし、江戸時代の茶道人口のほとんどは江戸周辺に集まっていたのではないか?この時期にお茶=京というイメージが付きそうなイベントは「お茶壷道中」くらいか?しかし、これじゃ単なる産地のイメージだ。
明治大正期。市井の茶道人口はいまひとつ判らないが数寄者達は東京と大阪中心。困窮した円能斎が東京に行った、という話は、お茶の中心が京都に無かった事を意味すると思う。なお昭和12年出版の茶道全集では「茶道が一般に盛んなのは名古屋。次に金沢」と書いてある。
お茶=京。なんとなく戦後の概念な気がする。
1969年に「京の茶家」が出版された。紹鴎も利休もまるで京都の茶道家の様に扱うこの本は、「日本の茶家」が出るまで10年以上空いた事を考えると、京=茶への影響は大きそうだ。
でも井口海仙さんを中心に、ものすごーくうまいイメージ戦略を三千家が展開し成功したのかというと、ちょっと違うかもしれない。
三千家、特に裏がイメージとして押し出したのは「お茶は和の心」。そのイメージの補強に岡倉天心があるかもしれない。それに対し京都の産業・観光業界が押し出した「和と言えば京都」の概念。この二つが連結しちゃったんじゃないか?そういう仮説を立てている。
でも「お茶は和の心」と「和と言えば京都」の初出調査がうまく進まないので仮説のまま終りそう。