茶道百話

近重物安 著。昭和17年

茶の湯に関するエッセイ集。

岡倉天心茶の本について:

高尚幽遠、正に是所謂、夷の思ふ所に非らざるものである。
かヽる高幽なる思想が必ず茶を點ずる事によつて發生するものであるとせば、
お茶の一滴は王母の桃實か、葛洪の金丹か、起死回生の霊藥でもあるのか。
お茶を嗜む日本人は皆かくの如き哲學者であらうか。

天心の思想の高尚さを誉め挙げる(てか誉め殺し?)
更にこれなら外人も茶をやりたがるだろう!と持ち上げておいて、

極言すれば岡倉サンの學問の發露で、お茶の本領ではない。
態ゝ外國から來た外國人が茶室のうちでドンナに失望を感ずるであらうか。

茶の本の思想は茶の湯と関係が無い、信じた外人がお茶やってがっかりしたらどないすんねん、と喝破している。

他の内容を要約すると:

  1. 珍重される墨蹟を書いた高僧にも尊敬できない奴はいる。
  2. 家元手捏の茶碗なんて何がいいんじゃ。素人が恥を後世にさらすなや。
  3. 樋なしの竹で茶杓作ればいっぱい作れて便利じゃん。
  4. いろんな職業の達人から凄みを感じる。茶人は客に素人が多いので凄みが入らんのかなぁ
  5. 茶や花の宗匠はブローカーか?ええやん、ブローカーでも。

みたいな感じ。なかなか痛快なエッセイである。
…まぁ年寄りのくりごとも多いけどね。

ご存知 幹利休の遺偈の話も載っている。でもこれ、結構怪しい話。近重物安自体は幹利休という人物の実在を示す一次資料を確認していないんだ。そして現在、物安の話を引用する人も、幹利休の実在を確認してない。なんだかなーという感じだ。


躙口、という一篇では朝鮮の窓障子の事が紹介され、

朝鮮の建物其まヽが輸入されたのではないが、其出入口を之に學び、而して更に之を有意義に剛腹な人の心を先づトッチめて掛る風にしたのでは無からうか。

"千利休追跡"に「高麗カコイ」として同じ内容があったが、既に50年前に仮説はたてられてたんだなぁと思った。

同世代の箒庵に関する感想も面白い。

結局はツマラヌ會だとしか思はれぬ會も箒庵の筆に上ると利休時代其儘の大會の様に見える。筆の力である。

ぶっちゃけすぎです。

さて、一番面白かったのは以下の部分。

お茶はと云ふと「裏」か「表」かと云ふ。「武者小路」を知らない人がある。
「表」と「裏」となら「中」とでも云つたら、人が覺え易いのかも知らない。

ああ、武者小路の人はそーゆー悩みあるんじゃないかと思っていたが、戦前からそんな感じなんか。