エキサイティングな会記たち

茶道古典全集に松屋会記と天王寺屋会記が収録されている。

松屋会記は読むのが辛くて中途。天王寺屋会記はあと回し、と考えていた。ほら、宗湛日記とかの方が楽しそうだし。

でも矢部先生の著書を読んで、「利休の事跡」がこれらの会記に残っていないか調べたくなった。


…あった。あったよ。


天文二年に開始され、50年以上の間、天目や高麗茶碗ばかりを記録して来た久政の会記。


天正14年3月2日、羽柴秀長の茶堂である曲音の茶会。
羽柴秀長は前年に大和の国に入っていて、おそらくこれが松屋を招いた初の茶会になる。

ここではじめて「セト白茶碗」が登場する。

同年9月28日、その曲音の屋敷で、茶会が開かれる。

郡山曲音御屋敷ニテ、
宰相様江 堺山サツマヤ宗二御茶上ラルヽ、
同廿八日 午刻 久政壹人ニ御茶給ル、

多分、秀長が豊臣姓になった事を披露する茶会だったんじゃないかと思う。
この茶会にも瀬戸茶碗。しかし注目すべきは以下の部分。

茶ハ極ム、如何ニモタフタフトスクヰ、四ツ五ツ入、湯一柄杓、スイ茶也、

吸い茶=廻し飲み。今の濃茶作法である。
山上宗二が茶を点て、瀬戸茶碗で廻し飲みさせたことが書いてある。なんと久政→秀長の順に。

各服点の時代に廻し飲みは気持ち悪い行為であったという。保守的な奈良ではなおさらだろう。利休の一の弟子と豊臣秀吉の弟が、この茶を権力づくで普及させようとしていた構図が見えて来る。

さらに、翌天正15年。

久政が招かれた9つの茶会(除く北野大茶湯)のうち 7つで今焼茶碗が使われている。天正14年から15年の間に、流行が激変した事が判る。


では津田宗及の他会記はどうか?

こちらは先進的な堺の茶人だけに、1年早い天正13年に注目すべき会記がある。

同二月十三日朝 古田佐介會 宗無 宗及
一爐 二重かま 自在 瀬戸茶碗

古田織部が瀬戸茶碗を持ち込んだ事が判る。

この時期にこの二人がいろいろ変わった事を行っていた、ということだけで、利休の影を感じるし、ワクワクする。

会記とは、見方によってなんとエキサイティングになるものか。