私の茶乃湯考

堀内宗心/世界文化社/2000年。

堀内宗心さん、というと佐々木三味の「茶の道五十年」に出て来た可愛い幼児の弟さんの方のイメージが強い。

もちろん、今はお爺さん。抹茶の長期服用の効果で茶人にハゲはいない、という私の説に反証するようなお爺さんである。剃っているだけかもしれんけど。


ま、それはともかく。


茶人の実感的なものを読むのが好きな私としては、昔の茶会記には季節があまり出て来ない、とか、待庵は炉の前に小板がないので窮屈、とか、現代の炉の居ずまいは釜に近すぎて膝前が狭いよ、とか、道具は中指で持て、とか、いちいち頷ける話が載っててうれしいし、おもしろい。

おもしろいが、大丈夫だろうか?という気にもなる。

「利休によるわび茶の大成」という章では、茶会記をベースに吸い茶の風習のスタートなどを考証しているのだが、

なお、利休関係の資料としては「南方録」の茶会記がありますが、これは年代、内容について不確かな部分もありますので、今回は資料としては取り上げないことにしました。

とかずばっと書いてて「おおっ」という気になる。そもそも、学者ならともかく、職業茶人はこういう研究をやらないものだと思っていた。だって伝承を伝える側のひとじゃん。あんまり斬新なこと言っちゃあとやりづらくなんね?とか思う。


理系のおっさんとしての側面も面白い。


地磁気に関する考証をした上で:

私の喜寿記念として右の発想を英文にまとめ、雑誌『ネイチャー』に投稿する事を考えました。

すげぇ。すげぇ爺さんだよ。論文1ページ目も収録されているよ。でも抄録読む限り、地球の核が地磁気の源泉ではない、という事を論文内できちんと論証しているか判りづらいので没ったのではないかとか思った。キュリー点の話なんざ査読者は耳蛸だろうし。

炭の説明:

炭と申しましても主体は炭素でありまして、炭素はご婦人の感心の深いダイヤモンドと、鉛筆の芯である石墨(グラファイト)と、いわゆるふつうの黒い墨である非晶炭素とに分類されます。

こんな教え方して…ないよね、いくらなんでも。

茶の点て方について:

私が以前から溶液の溶解方法に専念しておりますとき、甥の分明斎宗幽(現宗完、堀内家当代)から意見がありました。それは、茶の粒子からあまり容易に容質を溶かし出せば、お茶の味のない成分が多く溶け出すのではないかということでありました。

なんというたのしげな社中か。

私の茶乃湯考

私の茶乃湯考