茶と禅は一味であるという。

でも禅は難しい。

いや、難しいっていうのは「勉強すればなんとかなる」ものの事だ。でも禅は齧れば齧っただけ、禅から遠ざかっていく気分だ。

そもそも、公案解くのに出家して、俗世と縁切っちゃうのが禅ですよ。茶人含めて在家で参禅して公案解いちゃう人がいるけど、俺は認めねぇ。在家で解けるなら誰も出家しなくていい筈じゃんかよ。


「禅語の茶掛 続一行物」より:

清流間断無

<中略>
この五字一行はこれに基づいたもので、夏の茶席などによく掛けられる一軸である。

この対句の一通りの意味は、
<後略>

その程度の理解でいいの?


その程度に素朴に理解すればいいのであれば、茶禅一味なんて言わなくていいんじゃないか?その程度の理解では駄目なのであれば、そもそも禅僧にしかお茶ができなくなっちまう。


アンダーアートという仏教美術のお店がある。

http://www.anderart.jp/

ここの墨蹟類についてのページがイカス。
http://www.anderart.jp/page6.htm

特定宗派の墨蹟がその役割を担い、茶道人口の急激な増加とともに次第に商業化され、作者を含めて大量生産されるようになりました。その過程で墨蹟本来の真価とは別の、表面的な形の美しさや表具の良し悪しを競うようになって現在に至っています。これらの作品はお茶道具屋さんやデパート、骨董屋さん等で数多く売られています。
 禅宗寺院の多くは、これらの作品を本来の墨蹟とは認識せず、当社も同様に異質な作品として認識しております。それらの作品には、商業的で表面的な形骸しか見出せないからです。それゆえにそれらの作品は取り扱いを遠慮しています。何卒ご理解下さい。 

きっぱりした態度で好感が持てる。…私と接点発生しないけどな。

もう一つ引用。

墨蹟について、鎌倉円覚寺の管長であった(故)朝比奈宗源老師の言葉を紹介します。
『墨蹟は読めない方がいい。親切ぶって解読などしてはいかん。何年、何十年かかろうと、読めるようになるまで座る。それが禅坊主の仕事だ。』

いや、マジそう思う。


本気を出さねば禅は判らず、本気を出せば禅の人になってしまって茶人では(というか俗人では)なくなってしまう。


なんとも中途半端な禅と茶の関係だが、互いの利の為に目をつむってきたんじゃなかろうか。茶は禅の威を借り、禅は茶人に阿って来たというのが本当の話じゃないだろうか。


あんまりコムズカしく考えない、という処世もあるとは理解しているんだけど、ここをマジメに考えないのは禅に失礼だ、という意識が抜けないのも事実。
いまのところ、私の中で茶と禅が折り合いがついていないんだよなぁ。