一翁宗守の謎

「へー、武者小路千家一翁宗守って吉岡甚右衛門って名で塗師やってたんだ。宮本武蔵と戦った吉岡一門と関係あんのかな?あれもなんか手に職ある一族だよね。」

この辺がスタートだった。

最初の疑問に答えはすぐ出た。吉岡一門の家業は染物であった。塗師じゃない。だから関係はなさそう。

だが、これをきっかけにいろんな疑問が湧いてきた。

なのでまず一翁宗守に関して整理しておく。

以下、武者小路千家の公式ページより。

武者小路千家の流祖、一翁宗守は兄宗拙と共に宗旦先妻の子であり、一時は兄同様父の下より離れ、吉岡甚右衛門と名乗り塗師を業としました。やがて千家の兄弟達の勧めでその技を初代中村宗哲に譲り、千家に復し、現在の地に茶室「官休庵」を建て、茶人としての道を歩み始めました。
一翁ははじめ陽明家(近衞家)に、そののち讃岐高松藩の茶道指南の地位にもあり、広くその名を知られる活躍を続けました。

ウザイのでふりがなは除去しました。

でももうちょっと整理するね。

  1. 宗旦15才の時に次男として生まれる(還俗した頃とほぼ同時期)。
  2. 吉文字屋吉岡家に養子に入り甚右衛門という塗師となった。
  3. 隣に住んでた初代中村宗哲に娘をめあわせ、塗師業を譲って千家に復帰
  4. 千宗旦は職をあっせんしまくったが、実らないまま死去
  5. その後高松藩の茶堂となった。
  6. 高松藩を辞める。俗に「官を休む」が官休庵の由来。

さて問題は、3の段階*1で60才前後。茶堂になったのが72〜3で、茶堂辞めたのが74くらいなことだ。



疑問一。

「そういえば塗師としての一翁宗守って、どうだったの?」

羽田とか藤重か秀次とかの棗が伝世している。宗哲も当然ある。でも吉岡甚右衛門作の棗を見た事がない。

もちろん私の見聞が浅いと言う可能性は高いんだけど、多分40年か50年は塗師をやってた筈なんだぜ。聞いた事無いってやっぱおかしくね?

相当下手な塗師だったか、名前だけだったのでは?

もっというと、一翁宗守の好み物棗すら聞いた事が無い。
本当は漆が嫌いだったんじゃ…。

ちなみに言うと、後の蒔絵師山本利兵衛は吉文字屋さんで漆芸を学んだという話もあって、吉文字屋→中村宗哲という継承が行われたのかも疑問が有る。


疑問二。

「なんで千家に復帰したの?」

60近くにもなって千家に復帰し、でも職無し。晩年の宗旦が猛烈に猟官運動をやっているんだけど、普通に隠居する年じゃん。


疑問三。

「十何年やってた就職活動なのになんで1年くらいで辞めちゃうの?」

60で千家に戻って70代で就職。翌年"官休"する。なんでやねん?

でもこれはちょっと判るかも。53の時に作った息子(官休時点で21才)に継がせて世襲制にしたかったんだろうな。実際そうなったし。


自らは官に就かずも息子の就職をあれこれと世話をしてやる宗旦。
年をとって官を辞して官休庵を名乗った一翁宗守


なんかイイ話の様に思っていたんだけど、


60で養子先から戻って来た息子を世話する75の爺さん。
70代で就職するけどすぐ戻って来た息子。

年齢をあてはめるとなんだかなーという感じになるよ。

*1:4/20修正。「2の段階で」にしてた。んなわきゃーない