ぼくたちの総合芸術

茶道は総合芸術である。

「お茶はなぜ女のものになったか」では、この言説に関して戦後の裏千家が展開したキャンペーンとしている。でも間違いじゃあるまいか。

"茶の湯の手帳",伊藤左千夫では以下の様に言っている:

極めて複雑の趣味を綜合して、極めて淡泊な雅会に遊ぶが茶の湯の精神である、

http://www.aozora.gr.jp/cards/000058/card46341.html

これは明治39年の文章である。
総合芸術言説のルーツはもっと昔に有りそうだ。


しかしながら、茶道は総合芸術である、ということは誇っていいことなのだろうか?

総合芸術論説には、そこに含まれる各個の芸術から反撃されたらレベル的に対抗できない、という大きな欠陥が有ると思う。


書は書聖 王義之に向かわず、坊主の字、それも崩しすぎた字を愛好する。

画は日本画の最高峰、雪舟を用いず、禅画の味わいを愛する。

花。無垢な子供の前に華道の流儀花と茶道の茶花を出せば、子供は前者を「すごーい」というだろう。

陶器には強さ美しさを求めず、荒れた古びた脆いものを愛する。

建築は、構造美やダイナミズムを楽しむのではなく、細部の材質や細工、微妙な角度とかをありがたがる。

料理は贅を尽くさず。ホスト/ホステスが同席しない類を見ない食事会。

禅は、ほとけをいじるのみ。


多分、素朴な目で見たら、茶道が総合したそれぞれの芸術の中での茶道のポテンシャルは甚だ低いものにうつるのではなかろうか?


んじゃ何が茶道のええとこなん?と聞かれたら、なかなか困る。

「いろんな芸術をかじっていて、それをひねくれて解釈するスノッブな部分」

こそが茶道の要諦なのかもしれん。