東山殿と闘茶

私は、足利義政が珠光にお茶を学んだ、という事を信じていない。

理由。証拠がないから。


それはそれとして置いといて、もし、足利義政が誰かにお茶を習ったとする。

でも、珠光を奈良から呼び出してまで茶を学ぶ必要ってどこにあったんだろう?近所にいくらでも茶湯者はいたんでなかろうか?
それともこの頃はまだ奈良にしか茶湯者がいなかったのだろうか?…実際、奈良は室町茶道のメッカ的な場所ではあるが。


で、もう一つ疑問。

なんで茶の湯だったんだろう?闘茶じゃ駄目だったの?

佐々木道誉は義政より前の世代の人間で、京を舞台に闘茶で知られていたんだから、京都で探せばいくらでもいた筈だよね。

あれだけの道具持ちなんだから、闘茶をやればえらい盛り上がったと思うのだが。
それとも義政は闘茶を嗜んでいたのだろうか?聞いた事はないけれど。

まぁ義政が茶の湯をしたかどうかすら確認できる資料がないのに、闘茶をしたかどうか確認はできないわけだが。


義政が珠光を呼び寄せ、侘び茶を学んだ、という茶史はどうもいろんな部分に飛躍がある様に思う。


あともう一つ。

闘茶が茶の湯のルーツである、って事を言い出したのは誰なんだろう?山上宗二記/南方録あたりはそう言ってないよね?