原三渓における遠州観

三渓は、自分のノートに以下の一文を残していたという。

彼レノ普請奉行ニシテ美術ノ総番頭タル小堀遠州ハ小慧細巧ノ俗吏ニシテ、雄麗ヲ去テ繊巧ヲ喜ビ、渾厚ヲ斥ケテ細慧ヲ弄ビ、遂ニ日光廟ノ建築、如此キモノアルニ至ラシメタリ

二荒ノ深山大沢ヲ背景トスル大神廟ヲシテ、蒔絵ノ小香筥ノ如ク然ラシメ、当時ノ彫刻工画工漆工金工ヲ天下ニ集メテ、其遠州式小芸術ニ陥レ、繊巧細慧ノ風ニ堕落セシメ、又救フ可カラザルニ至ラシメタリ。
俗茶人ハ彼レヲ茶道ノ神ノ如クニ信ジ、然シテ実ハ彼レノ迎合的ニシテ虚儀的ナル茶道が茶禅ノ一味ヲ破壊シ去リ、茶道ノ神髄ヲ没却シ了リタルヲ知ラズ。
彼レガ其虚飾ナル茶道ト繊巧ナル意匠トヲ以テ、徳川氏ノ芸術ヲシテ堕落セシメタルノ罪、惜ンデ余リアルモノアリ。

ざっくり略すと「遠州てめーチマチマ茶道を小さくしてんじゃねーよ」かな。


言いたい事は判る。気持ちは判る。よーく判る。


三渓は極侘びの茶人だったという。

なので、遠州への反感が強かったのだろう。



三渓園、なんて無茶な庭を造園する、という行為と、侘び茶を両立できる、というのがよくわかんないけど。


ところで、

無茶な庭と侘び茶という意味では上京後藤↓と共通するものがないか?

http://d.hatena.ne.jp/plusminusx3/20100411

これはこれで茶の湯の系譜にしたがった茶人だったのかもしんない。